Lim Minoukは、写真、映像、彫刻などさまざまな素材を使い、言語、歴史の喪失と断絶などをテーマに作品を制作。急速な社会経済的な発展、再開発とその結果として生じるコミュニティの移動など、社会、マスメディア、政治と市民の関係に長期的なテーマとして取り組んでいる。歴史的な事実、記録をドキュメントとして並べるだけではなく、その事実から派生した結果としての現状がここにあることを観客に認識させることがその作品の特徴。詩的な作品にも定評があるが、観客をツアーとして組み込んだ演劇的ともいえる参加型の作品などもあり、表現方法は多様である。
主な展覧会 Selected exhibitions
- 2020 光州トリエンナーレ、光州(Gwangju)、韓国
- 2019 あいちトリエンナーレ、愛知芸術文化センター、愛知県名古屋市
- 2019 リヨンビエンナーレ、リヨン、フランス
- 2016 台北ビエンナーレ、台北、台湾
- 2016 瀬戸内国際芸術祭、男木島、香川県
- 2016 シドニー・ビエンナーレ
- 2015 solo exhibition, Minouk Lim - The Promise of If, PLATEAU - サムソン美術館、ソウル、韓国
- 2012 solo exhibition, Minouk Lim: Heat of Shadows, ウォーカーアートセンター、ミネアポリス、アメリカ
- 2010 リバプール・ビエンナーレ
作家自身の言葉 Statement by the Artist
過剰な競争の激しい社会に住んでいる私は、常に悲劇的であったり破壊的な感情に悩まされていました。私の作品は、その感情に抵抗することで生まれています。私が歴史、過去を振り返る理由は、未来と理想への執着でもあります。
2021, Lim Minouk
作家について About the Artist
一般の観客に人気があるとは言えない現代美術を取り巻く日本の状況で2019年のあいちトリエンナーレほど話題となった美術展は近年なかったであろう。それは残念ながら展覧会や作品そのものについての評価というより、別な形でネットと報道は熱を孕み、個々のよい作品について語られる余地までも残念ながら奪い去ってしまった感がある。「表現の不自由展・その後」展が公開中止になって数日後、それに抗議して自ら展示を閉鎖した作家のひとり、イム・ミヌクの作品も同様である。ミヌクが韓国の作家であることが近年の日韓の状況と閉鎖された「表現の不自由展」の内容とリンクすることで、2か月後に展示が再開された際も好奇心と色眼鏡で作品が見られることになってしまったのではないか。この作家が展示を閉鎖したのは自身が韓国人であったからではない。ミヌクのアーティストとして制作することの動機こそまさにこの時のように政治判断や報道が取り巻く現代の社会状況を見つめるところから出発しているからだ。
イム・ミヌクは1968年生まれでインスタレーション、映像、パフォーマンス、音楽など様々な素材をつかうアーティスト。1988年にパリに渡り美術を学んでいる。1990年代後半よりソウルをベースに作品を発表している。久しぶりになじみの場所を訪れてすっかり変わってしまった街並みに驚いた経験は多くの人がしているだろう。新しい道ができ、区画が再整備され、古い町が大きなビルへ変わり風景が丸ごと変わってゆく。前にあった風景を私たちは次から次へ忘れ去ってゆく。ミヌクもソウルに戻り同様の思いを感じたようだ。そしてそこに暮らしていた人々はどこに行ってしまったのだろう。
2005年にミヌクはソウル市当局が行った再開発のドキュメンタリー映像作品「New Town Ghost」を作っている。再開発のスローガンはいつでも「よりよい未来が待っている」。この作品では立ち退きを迫られる住民の声にクローズアップしている。こうした表(オモテ)としての政治的、社会的な声と裏側に閉ざされてゆく人々の声の狭間がミヌクの作品に通底して現れるテーマである。彼女の作品からは語られる歴史のオモテとともに失われたものや声、断絶、排除などを感じ取ることが出来る。
2019年のあいちに出展された「ニュースの終焉」という作品は同作家の2012年の映像作品「The Possibility of the Half」(半分それぞれの可能性)を再編集し、インスタレーションとして組み直したものだった。ここでthe Halfは韓国と北朝鮮のことである。この作品はその前年に2011年に死没した「共産主義」の金正日(キム・ジョンイル)の葬儀と1961年のクーデターで政権について「漢江の奇跡」といわれる韓国の高度経済成長をもたらしたと言われる「反共」の独裁者、朴正熙(パクチョンヒ)元大統領の1973年の葬儀の映像を並列させた。両者とも悲しみくれる市民を映しており、まったく異なる体制のメディアと政治が同質の感情の扇動を行うことで国民全てという架空の共同体を暗示させている。一方で実際の個々の国民の声は取り上げられず、排除されているはずなのである。
ミヌクは現代社会の成長や発展、架空の共同体から除外される声にならない声、見えないけれどもそこにあるものを「近代化の亡霊」と呼ぶ。そして居場所を失ったものを顕在化し、「オモテ」の世界の違和感に気づかせる。そこにはもちろん歴史的な知識や調査も伴うであろうが、知りえた事実をドキュメンタリーとして列挙することや暴き出すことで体制を批判する新たなイデオロギーを訴える作品ではなく、むしろミヌクが重視するのは社会の中の事象の変化、またそれに伴う断絶や喪失という切り口にある見えてこないものであり、忘れられた、或いは意識的に消された「亡霊」をよみがえらせる装置をミヌクはアートと呼んでいるのではないか。
日本でも東京都写真美術館の恵比寿映像祭(2012)、東京都現代美術館の「他人の時間」展(2015)、あいちトリエンナーレなどでミヌクの作品はたびたび紹介されている。いづれも過去の作品を再展示または編集した作品であったためか、韓国の政治や社会を取り上げるアーティストという印象が強い。もちろんミヌクの作品テーマには国籍を問わず与えられるインパクトがあるのだが、作品の背景にあるものを知らない私たちが解説抜きに韓国の人々と同じように作品を見て反応することは難しい部分も感じられる。
ここで本来特筆しておきたいのは特定の場所のために国外の観客を想定してつくられた作品にはこの作家のもうひとつの特徴、ゆったりとした情緒が感じられる作品も多くあるということだ。2019年のリヨン・ビエンナーレでは洗濯機を作っていた元工場に光る美しい足湯の運河が作られていた。
2016年の瀬戸内芸術祭に男木島で展示された作品も印象的な作品であった。筆者もその際に作品作りの手伝いをしていたが、かつてその空家に住んでいた住民へのインタビューから先祖が灯台で働いていたことを知り、灯台、そこから発せられる光をテーマとした作品を作ることになった。現代でこそ灯台は無人でも遠隔操作やタイマー設定で運用が可能であるが、かつては人が住み込みで動かしていた。島の生活、船の航海安全はこうした人々に守られていたのである。近代化の中で人々が島から出て行った歴史、変わったことと変わらなかったこと、興味とテーマの本質はこの作家のそれまでの作品からぶれれることは決してなかったが、日本語の分からない他者としての作家が知り得ることからテーマを絞り込んでゆく感性、情報からどのように「見せる」作品に切り替えるか素材の選び方の感覚は素晴らしかった。現代社会への鋭い切り口をもった作品もさることながら、一方のこうしたスタンスで作られた作品をさらに展開させるチャンスが増えることを期待したい。