社会が変われば定義も変わる【芸術・美術・アート】

「美術」の意味は ?!

自明なものと思ってしまいがちな「芸術、美術、アート」だが、コーディネーターやプロジェクトマネージャーとして現場で働くとき、この言葉の内容は人によって随分と違うと実感する。同じ言葉を使っているだけに、問題が起きるまで違いに気付かないこともあり、思わぬところで躓いてしまう。

そのたびにアートと社会をつなぐ私たち媒介者は、発言者の社会的属性や出身の国・地域によって、「芸術、美術、アート」の内容が異なり、それぞれを理解する見識が必要だと痛感する。

例えば「アート」を入れたいというお話しをいただき「現代美術」の作家とプランを提案、紆余曲折の後、現場に収まったのは「建築」のデザイン処理や「伝統工芸品」だったという場合。ついつい、本当に欲しかったのは「アート」じゃなかったんだからそう言って欲しかった、と言い訳したくなる。でも言葉ではなく内容を理解した上で、どの方向に持っていけるかが媒介者の実力。「アート」と言われて「現代美術」と思い込んでしまったこと、あるいはプランの魅力を説ききれなかったことを反省せねば。

とはいえ、自分の活動領域で相手の言葉を理解してしまうのも人の性。まずは「芸術・美術・アート」の八百万を知っておこう。

西洋の「art」 漢語の「藝術」/どちらも 学問と技術

artはラテン語のアルスars、ギリシア語のテクネーtechnに由来し、「学問」と「技術」の二つの意味を内包していた。漢語「藝術」は「後漢書 孝安帝紀」に用いられ、「学問と「技芸」をさしていた。東西微妙な差はあるものの、今私たちがイメージする精神的創造活動的なものより、もっと具体的に探究する行為やその技に用いられていた。

明治に誕生した用語「美術」

開国当時、西洋の考え方に対応する日本の言葉がなく多くの翻訳語が作られた。「美術」もその一つ。 fine art(英)に該当するものが無かったため新しい言語として作られた。

― 江戸にも画、書、歌舞音曲、詩や工芸など造形文化があったのになぜ? 

■ fine art は 分類(領域)用語

fine art は、諸芸術の中でも、特に芸術的価値を専らにする文学、音楽、造形美術、演劇などの活動や作品を包括して一つの領域とみる「類の概念」。18世紀のヨーロッパで誕生し、研究され定着していったもの。感覚的な「美」を定義し、学問的体系づくりが試みられ、19世紀には美の表現以外のものを目的としない純粋な芸術、いわゆる〈芸術のための芸術l’art pour l’art〉であるべきだという主張とともに、他の実用的価値を持つものを応用芸術、装飾芸術、実用芸術などとして区別するにいたる。

― ウィーン万国博に出品するため、万博の出品分類を翻訳造語した言葉が「美術」。出品を呼びかける太政官布告が新聞に掲載され、日本人に初めて「美術」の語が現れた。当然注釈がある。

美術〈西洋ニテ音楽、画学、像を作る術、詩学等ヲ美術ト云ウ〉ノ博覧場ヲ工作ノ為ニ用フル事

- 翻訳語 「美術」の誕生当時は、今日の「芸術」の意味に近い?

ヨーロッパでは、16~18世紀位まで、アートart(フランス語,英語),アルテarte(イタリア語),クンストKunst(ドイツ語)、は、「技術」「巧みな仕上げ」のような意味で用いられてきた。 ここに〈純粋な芸術的表現をもつもの〉という限定された概念が現れたので、「美」という意味の言葉を足して fine arts(英語)、beaux‐arts(フランス語),ベレ・アルティbelle arti(イタリア語),シェーネ・キュンステschöne Künste(ドイツ語)という語が生まれた。

― 日本語の「美術」もこの考え方に該当すべく翻訳造語された。あれ?でも「芸術」は

「藝術」と「美術」

「藝術」は、学問・技術・技芸として用いられていたからfine art には適合しない。福沢諭吉は 「書画、彫刻、馬術、弓術、相撲、茶の湯、大工、左官の技術、料理、陶芸などを総じて諸藝術」と帝室論に記載している。 (日本人の私には、今の分類といわれてもしっくりくる。)一方fine art「美術」の方は、発祥の地西洋でも議論が続いている概念だからするっと受容されるはずもない。言葉の誕生から明治中頃まで(短い)は、翻訳した原語の意味通り、造形文化だけでなく、音楽や文学も含めたfine art の意味で使われていたけれど、怒涛に動いているこの時代。「藝術」の方にも精神的な活動といった意味が加わって使われるようになってきた。すると「美術」の方は、絵画・彫刻・書・建築・工芸などの視覚芸術(造形芸術)に限定して用いられてくる。

そして今は ― 広辞苑

【美術】(西周によるfine artsの訳語)本来は芸術一般を指すが、現在では絵画・彫刻・書・建築・工芸など造形芸術を意味する。アート。クンスト。

【芸術】①〔後漢書〕技芸と学術 ②(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、鑑賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踏などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみをさす場合もある。

あれ ? どっかにいっちゃった fine art

そう、fine art という概念は日本に本当の意味では根付かなかった。美術業界人が、本来「美術」は「美」〈純粋な芸術的表現をもつもの〉を探求し学問的に系統だてる行為を含み、造形芸術品だけのことじゃないんだ、と主張するのは正しい。けれど、一般的にそのような認識はされていないし、どっちが正しいとかいうものでもない。言葉の使われ方、意味は変化し続ける。このような現象はきっと、世界の色々な国や地域で、似たり寄ったりのことが起きている。

現代は、世界の距離が縮まり、人の流れとともに様々なものや考え方が伝承し、移動時間とともに変容定着していくというゆったりとした時間の流れではないから、ダイレクトに原語を用いた方がスムーズだったりする。溢れるカタカナ外来語を、どんな意味?とスマホでググる。でも言葉の壁は考え方の壁、やっぱり日本なりの解釈や意味が加わって独自の変化が生まれている。結局内容をよく考えて理解することが必要。

勝手な持論 - 「作品」と「作家」

といいつつ、現場で感じる傾向を少し雑に述べる

・欧米の人々は「作家」を重視し、日本を含むアジアの人々は「作品」を重視する傾向がある。 ・あるいは、美術業界の人は「作家」を、美術業界以外の人は「作品」を重視する傾向がある。

もちろん、違う場合もたくさんある。でも平たくいうと大体そんな傾向だ。なぜかというと、日本を含むアジア圏に住む人の多く人々、あるいは美術業界以外の人々は、「美術」と言われると、活動の所産の方を思い描く。「芸術」は、人間の衝動、喜びとしての営みで「美術」は 絵を描く、ものを作るという造形文化、そのための技術。だから結果の「作品」が大事。

それに対して、欧米の人々や美術関係者は、fine art として考える。手技・技術だけではなく、理論と歴史の体系を持つ発明した「概念」。そこでは、アーティストたちが「芸術」をテーマに自問自答する活動もあり、楽しむには教養が必要で「感性」だけでは理解できない。悪く言うとめんどくさくて、ドツボにハマって出口なしの面もある。でもだから、それを考えて作り出すプロセスや思考を生み出す「作家」が大事。

「作品」と「作家」の両立が難しい究極の場面に出くわしたとき、「作品」を選ぶか「作家」を選ぶかの違いが現れる。

蛇足ですが 「藝」と「芸」 

芸は藝の略字だと思っていたけれど、もとは別の漢字。

「藝」は、草木の苗を植えている様子を表し、そこから「種を蒔くことで豊かな教養が身に付きいずれ花開く」といった意味をもち「藝術」。「芸」は、防虫効果のある強い臭のミカン科の植物と、「草を刈り取ること」を意味するから、成長の藝 とはどちらかというと反対の意。

― なぜか? ― 第二次世界大戦後の当用漢字制度で、「芸」は「藝」の略字という間違った定めをして普及させてしまったから。学校名等に藝の字を使い続ける理由はこれでした。

■ 蛇足ですが 「図画工作」と「美術」/「算数」と「数学」

小学校では図画工作、中学校からは美術と授業のタイトルが変わる。「算数」も「数学」にタイトルが変わる。「算数」は日常生活で必要となる計算で正確な答えを出すことを学ぶ。「数学」は負の数(マイナス)や平方根(ルート)など、日常生活では目にしない抽象的なものを使って「なぜそうなるのか」を理解し表わすことを学ぶ。算数は正しい答え、数学は答えまでの過程が重要。同様に、「図画工作」で造形技術を、「美術」で創作するための考え方や鑑賞方法という目にできない抽象的なものを学ぶ。実際の今の文科省指針がどうかは別として、授業のタイトルには、fine art 受容初期の心意気が残っているのかと勝手に得心した。

■ 知ったかぶりをしたけれど

眼の神殿―北沢憲明 / 広辞苑 第7版 【美術】【芸術】/世界大百科事典 【工芸】【美術】日本大百科全書(ニッポニカ)等を参照させていただきました。

私たちは、自分なりの尺度を持っている。けれど、「芸術・美術・アート」類を構成するジャンル、ある作品を芸術か否かと定める一般的に合意された定義はない。それぞれの時代、それぞれの地域、それぞれの業界によって異なっている。

言葉に惑わされず内容を理解しよう、という自分への戒めを込めた記事でした。